似て非なり


福井県議の斉藤新緑氏の「ワクチンは殺人兵器」発言が話題になっている。早速斉藤氏の議会報告「ほっとらいん」8pをプリントアウトして目を通してがっかりした。一方的情報の引き写しでしかなくて、斉藤氏自身の見識が伝わってこない。これでは二者択一の「どちらかを選べ」で、議論にならない。「陰謀論」で切り捨てられてそれで終わり。いま世の中に求められているのは「共通認識」なのである。

と、ここまで書いて井筒俊彦を思う。井筒俊彦は私には遥か遠くに見上げる巨峰だが、東洋思想と西洋思想の原型まで遡ることでその融合を果たそうとした人であった。安藤礼二氏による井筒俊彦全集推薦文。《井筒俊彦は20世紀の日本が生み落とすことができた最大かつ最高の思想家である。思索の対象としたジャンルと地域の多様性においても、その理解の深みにおいても、他の追随を許さない。柳田國男の民俗学と折口信夫の古代学さらには西脇順三郎の詩学を一つに総合し、西田幾多郎の哲学と鈴木大拙の宗教学に橋渡しした。/『コーラン』の読解によって宗教の起源を砂漠のシャーマニズムに探り、『神秘哲学』の構築によって哲学の起源を舞踏神ディオニュソスの憑依に探った。そしてユーラシア大陸の極西に生まれた神秘主義思想と、ユーラシア大陸の極東にまで達した神秘主義思想を一つに結び合わせた。東洋という視座から日本、アジア、世界を統一的に論じる道を拓いた。そのとき、もはや学問的な研究と詩的な表現の間の差異は消滅してしまう。グローバルであることとローカルであることの差異もまた、井筒俊彦を読み直すことから、次なる100年の思想と表現が始まる。》井筒俊彦は、私にとって「共通認識」追求の極み的存在である。

もうひとり、吉本隆明。吉本隆明は何よりも「党派性」を嫌った。「吉本隆明と党派性」で検索したら、1987年9月、私もその場で聴いたはずの「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」と題するイベントでの最後の話だった。先端的な部分でとれば「党派的な段階っていうのは終わったな」、「一般大衆の課題が前面に出てくる段階にはいったな」っていうのがぼくの基本認識・・・ぼくは「党派にならない」って思っています。そういうふうに思ってもらっては困るので。これは、ぼくらがいる場所で(それぞれ場所が違うわけですけども)、最小限、場所として一緒に主催者になりうるみたいなそういうところで、「その場所で何ができるか」っていうことはあるのかもしれないし、「何ができるか話してみようじゃないか」みたいなこともあるかもしれないけれども、そうしておいて、これを「ひとつの見解にまとめて…」みたいな、そういう段階的な、それは「ありえない」っていうのが、ぼくの当初からの認識であるわけです。》https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a105.html 音声も聴ける。→https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a105.html 音声で聴くと吉本さんの「党派性」嫌いの感覚がよく伝わるのだけれども、「怪文書」の話が出る。「仲間内だけで通用する文書は怪文書」であって、そこからすると斉藤新緑氏の機関紙は、吉本氏の言う「怪文書」のレベル。「共通認識」へのとっかかりもない。「似て非なり」と言わせていただいたゆえんです。

この記事へのコメント